New Haven の Amistad 事件:Sengbe Pieh、John Quincy Adams、そして街の Northern Conscience の伝統

New Haven の Amistad 事件:Sengbe Pieh、John Quincy Adams、そして街の Northern Conscience の伝統

1839 年 8 月、米海軍の艦船は Long Island の沖を漂流するスクーナー船 La Amistad を発見しました ── 帆はぼろぼろ、乗組員は死亡、貨物倉には 53 人の西アフリカ人捕囚 が収容されており、彼らは 2 か月前にスペイン人の奴隷主から船を奪っていました。捕囚たちはほぼ全員が、現在の Sierra Leone にあたる地域の Mende の人々で、アフリカで違法に捕らえられ、施行中のあらゆる国際奴隷貿易条約に違反して大西洋を越えて運ばれ、Cuba の港間を移送されている途中でした ── そのとき彼らのリーダー、若き農夫 Sengbe Pieh(米国の新聞ではスペイン語の名前 Cinque で知られる)が鎖から自由になり、サトウキビ用のナイフで武装し、他の人々を解き放ち、スペイン人の船長と料理人が殺された蜂起を率いたのです。捕囚たちは生き残った乗組員に東のアフリカへ向けて舵を切るよう命じました。乗組員は昼は太陽で航行し夜は北西へ舵を切ることで捕囚たちを欺き、船は最終的に米国領海へ漂着しました。

La Amistad を拿捕した米海軍艦長は、1839 年 8 月 26 日に船を Connecticut 州 New London に曳航し、スペイン法では数十万ドルの奴隷化財産として扱われる積み荷の salvage rights(救助権)を主張するつもりでした。アフリカ人たちは New Haven に移送され、New Haven Green のすぐ隣の Church Street と Court Street の獄に拘禁され、そこに 18 か月 にわたって留め置かれることになります。事件は最終的に 1841 年 2 月に 合衆国最高裁 に到達し、捕囚たちは 73 歳の元大統領 John Quincy Adams によって弁護され、彼の 3 時間半の弁論によって自由を勝ち取りました。Adams は、捕囚たちが現行の国際条約のもとで違法に奴隷化されたこと、彼らは違法な拘禁に対して正当に自衛した自由な人間であること、そして合衆国は彼らを奴隷制に戻す筋合いはないことを主張しました。最高裁は 7 対 1 で彼らの解放を命じました。

New Haven の公民権ランドマーク

このエピソードは単なる歴史上の好事ではありませんし、単に Steven Spielberg の映画でもありません。Amistad 事件は、1839 年の事件と 19 世紀の奴隷制廃止運動、Connecticut を貫く Underground Railroad のルート、19 世紀の改革政治における Yale Divinity School の役割、そして 12,000 人の抗議者を New Haven Green に集めた 1970 年の Black Panther 裁判 ── これらをつなぐ New Haven 公民権史のより長い糸の地理的・象徴的中心に位置しています。これらのエピソードは別々ではありません。それらは単一の連続した伝統を形作っており、街がごく最近 ── 過去 40 年以内に ── 公的に記念しはじめたばかりのもので、今日 New Haven Green を歩く留学生は、ブロンズ、石、不在のなかにそれを読むことができます ── 何を見るべきか知っていれば。

Church Street の獄での 18 か月

Sengbe Pieh と 52 人の同胞捕囚が 1839 年 8 月末に New Haven に到着すると、彼らは Church Street と Court Street の獄に拘禁されました ── 建物はもう存在せず、その場所は現在、連邦裁判所に隣接する駐車場です。地元の奴隷制廃止論者は数日以内に警告を受け、その後 20 年にわたって米国の奴隷制廃止運動の組織化を形作る多面的な対応を組織しました。

最も重要な人物は Lewis Tappan ── 数週間以内に法廷弁護基金を組織したニューヨークの商人 ── でした。Tappan には Roger Sherman Baldwin ── New Haven の弁護士(独立宣言と憲法の双方に署名した Roger Sherman の孫)── が加わり、下級裁判所での主任弁護人を務めました。Tappan と Baldwin は弁護チームを組み、捕囚たちの食事と衣類のための資金を集め、Yale Divinity School の教授と学生が捕囚たちに英語を教える手はずを整えました。Yale の言語学教授 Josiah Willard Gibbs Sr. は New Haven の埠頭を歩き回り、Mende 語を話す船員 ── 王立海軍によって解放された元 Mende の奴隷 James Covey ── を見つけて通訳に立てました。Covey なしでは、捕囚たちは証言を行ったり、自分の名前を名乗ったり、弁護人と意思疎通をしたりすることができなかったでしょう。

Yale Divinity School のつながりは中心的です。1822 年に創設されたこの学校は、1830 年代と 1840 年代を通じて New England の奴隷制廃止運動の拠点でした。Yale Divinity School の教員と学生は、捕囚たちに英語とキリスト教を教える志願をしました(後者の結果はまちまちで ── Sengbe Pieh と他の Mende の人々は改宗にほとんど関心を示しませんでした)。Divinity School の学生は週に何度も学校から獄まで歩きました。事件が最高裁に到達するまでに、捕囚たちは弁護人と直接意思疎通できる程度の英語を身につけていました。

事件は 1839 年の基準では比較的速く連邦裁判所システムを通り抜けました。最初の審理は 1839 年 9 月の Hartford、第二は 11 月の New Haven、地区裁判所判決が 1840 年 1 月(捕囚たちを解放した最初の裁判所)、巡回裁判所控訴が 1840 年 5 月(判決を支持)、そして最終的に最高裁控訴が 1841 年 2 月。スペイン政府、米国大統領 Martin Van Buren(スペインの主張を支持)、salvage 請求者全員が、捕囚たちの Cuba と奴隷制への返還を強く求めました。

John Quincy Adams の最高裁弁論

控訴弁護人として John Quincy Adams を起用する決定は Tappan のものでした。Adams は 73 歳で、合衆国第 6 代大統領を務め、1830 年に Massachusetts 選出の下院議員として政治生活に復帰し、1830 年代を通じて奴隷制への議会で最も顕著な批判者 ── 反奴隷制の請願に関する下院討論を妨げる「gag rule」に反対する ── となっていました。Adams は当初しぶっていました ── 彼の健康は思わしくなく、法律実務は限定的でした。最終的に同意したのは、ある程度、この事件が憲法上の原則の試金石だと信じていたからでした。

Adams の最高裁弁論は 1841 年 2 月 24 日から 3 月 1 日 にかけて、2 日間にまたがって 8 時間半 続きました ── 米国法史上でも最も長い持続的最高裁弁論のひとつです。Adams は、捕囚たちが国際奴隷貿易を違法とする 1817 年英西条約 のもとで違法に奴隷化されたこと、したがって元来の奴隷化は法的に有効ではなかったこと、スペイン人乗組員に対する彼らの抵抗は合法的な自衛だったこと、そして合衆国は彼らを束縛に戻す憲法上の権限を持たないことを主張しました。

1841 年 3 月 9 日 の判決は捕囚側に 7 対 1 で下されました。Justice Joseph Story によって書かれた意見は、彼らの解放を命じました。奴隷所有者の判事たち ── のちに Dred Scott 意見を執筆する Roger Taney を含む ── が多数派に加わったのは、事件がより広い反奴隷制原則ではなく条約根拠で狭く決着されたためです。

Sengbe Pieh と約 35 人の生存 Mende ── 拘禁中に何人かが疾病で死亡 ── は、奴隷制廃止運動の宣教師たちに付き添われて 1841 年 11 月に Sierra Leone に向けて出航しました。その結果生まれた American Missionary Association の Mende Mission は、Yale Divinity School の長期的な西アフリカ関与の基盤となりました。

Amistad Memorial:遅すぎた記念

事件のあと 150 年近く、New Haven は Amistad のエピソードを公的に記念しませんでした。獄の場所は取り壊され、忘れられました。1839 年の場所は駐車場でした。

1990 年、Yale の歴史家、地元のアクティビスト、Amistad Committee による多年にわたるキャンペーンののち、街は New Haven Green の東縁、Church Street と Court Street のかつての獄の場所に Amistad Memorial ── Ed Hamilton による、Sengbe Pieh を 3 つの姿勢(捕囚として鎖につながれ、蜂起を率い、自由人としてアフリカに帰還する)で描く高さ 14 フィートのブロンズ彫刻 ── を設置しました。記念碑は今や Green での African American 史の最も重要な物理的ランドマークであり、毎年 2 月の年次追悼の焦点を務めます。

記念碑の遅い設置 ── 事件の 151 年後 ── そのものが重要な歴史的事実です。New Haven は他のほとんどの米国の都市と同様、20 世紀末まで African American 史を体系的に記念しはじめませんでした。1990 年の設置は、National Underground Railroad Freedom Center(2004 年)と National Memorial for Peace and Justice(2018 年)を含む全国的シフトを反映していました。Amistad Memorial は遅きに失したものでもあり、より広いパターンに整合的なものでもありました。

Connecticut の Underground Railroad

Amistad 事件はより広い Connecticut の奴隷制廃止運動の文脈のなかに座っていました。Connecticut は 1820 年代までに公式には自由州でした ── 1784 年の段階的解放法が、奴隷化された母から生まれた子どもを 25 歳(のちに 21 歳)に達したときに解放し、1848 年までに完全な廃止が完了しました。しかし Connecticut は、1830 年代から 1850 年代を通じて、中部大西洋の自由州を Massachusetts、Vermont、カナダのルートと結ぶ逃亡奴隷のための Underground Railroad の重要な回廊でした。

Connecticut を貫くルートは文字通りの鉄道ではありませんでした ── この用語は、逃亡奴隷の北上を助けた安全な家屋と奴隷制廃止運動組織の非公式ネットワークを指していました。New Haven は記録された停留地で、複数の Yale Divinity School 教授と Congregationalist 教会の会員がコンダクター(conductor)として奉仕しました。Farmington(北へ 40 マイル)は特に活発で ── Farmington Underground Railroad は全国でも最もよく記録されたルートのひとつで、現存する安全な家屋がいまも歴史的史跡として保存されています。

Connecticut の Underground Railroad は、相当部分、Congregationalist 教会、特に州の各地で牧師を務める Yale Divinity School 卒業生に関連する教会を通じて組織されました。Amistad 捕囚たちに英語を教えた Yale 教員を生んだのと同じ神学コミュニティが、教会の地下に逃亡者を匿い、夜陰にまぎれて難民の馬車を北へ走らせた Connecticut の聖職者たちも生み出しました。

歴史的皮肉は、奴隷貿易を行う East India Company の総督(Elihu Yale)の名を記念する同じ大学が ── Divinity School を通じて ── 19 世紀米国で最も集中した北部反奴隷制活動のネットワークのひとつを生み出した、ということです。Yale の奴隷制への制度的関係は本当に複雑で、Amistad 事件は機関が問題のかなりの部分で正しい側に立っていた瞬間のひとつです。

1970 年の New Haven Black Panther 裁判

Amistad-Underground Railroad-奴隷制廃止運動の伝統は、変容したかたちで 20 世紀の公民権運動時代へと続きました。20 世紀の New Haven 公民権の単一の最も重要な出来事は、Black Panther Party の 2 人のリーダー Bobby SealeEricka Huggins に対する 1970 年の裁判 で、1969 年 5 月の同志 Panther Alex Rackley の殺害に関する起訴によるものでした。

事件は当時論争を呼びました。Rackley は FBI の情報提供者であった疑いで、New Haven で他の Panther たちによって殺害されました。Bobby Seale ── 全国議長 ── は殺害時に短時間 New Haven にいましたが、殺害を直接犯したとは告発されていませんでした。Ericka Huggins ── New Haven の Panther オルガナイザー ── はより直接的に関与していました。州側の主張は Seale が殺害を命じたというもの;弁護側の主張は FBI が Panther 指導部に潜入し、裁判は政治的訴追だ、というものでした。

裁判は全国的注目を集めました。1970 年のメーデー(May Day) ── 1970 年 5 月 1 日 ── には、Yale、Wesleyan、Trinity その他の地域カレッジの学生を多く含む およそ 12,000 人の抗議者 が New Haven Green に集まり、起訴の取り下げを要求しました。Yale 学長 Kingman Brewster Jr. は「黒人革命家が合衆国のどこかで公正な裁判を受けられるかどうか、私は懐疑的だ」という公的声明を発表しました ── これは全国的批判を集めましたが市民秩序の維持には寄与しました。抗議は規模にもかかわらず大部分が平穏に保たれました ── これは、Brewster、Yale 教員、New Haven 市長、Panther 指導部すべてが事態の悪化を防ぐために協働したためでした。

裁判は陪審が膠着したのち 1971 年 5 月にミストライアルで終わり、検察は再審を辞退しました。Seale と Huggins は釈放されました。1970 年の Black Panther エピソードは Amistad 事件と地理的に連続しています。裁判は Church Street の連邦裁判所 ── Sengbe Pieh が 131 年前に拘禁されていたかつての獄の場所のすぐ隣 ── で行われました。メーデー抗議は New Haven Green ── 1638 年に植民地時代の Puritan 創設者たちが聖なる都市を構想したのと同じ Green ── に集まりました。これらのエピソードの地理的積層 ── Puritan、奴隷制廃止運動、公民権運動 ── は、New Haven の中心のおおよそ 6 街区に集中しています。

良心の伝統と公的記念

これらのエピソードをつなぐ糸 ── Amistad 事件、Connecticut の Underground Railroad、Yale Divinity School の改革政治、1970 年の Black Panther 裁判 ── は、一部の New Haven の歴史家が Northern Conscience の伝統 と呼ぶものです。この伝統は実在しますが、本当に複雑で、その公的記念は遅くて部分的なものでした。

複雑さには Yale 自身の奴隷所有の過去が含まれます ── 大学は最初期の数十年に奴隷化された人々を所有していました、いくつかの建物は奴隷所有者の名を冠しており(Calhoun College はこれを認めて 2017 年に Hopper College と改称されました)、機関は 18 世紀と 19 世紀を通じて奴隷制から間接的に利益を得ていました。Connecticut の解放への遅い道のりも含まれます ── 州が奴隷制を完全に廃止したのは 1848 年で、Massachusetts や他の New England 州から数十年遅れていました。奴隷制廃止運動の伝統そのものの政治的に複雑な記録も含まれます ── 原則的な反奴隷制のコミットメントと、家父長主義、福音主義的改宗政治、奴隷制の技術的終焉を超えて Black の自由が要求するものへの限定的な関与とが混合していました。

New Haven Green と周辺街路を歩く留学生にとって、層状の歴史は、どこを見るべきか知っていれば読み取れます。Church Street と Court Street の Amistad Memorial は Sengbe Pieh のブロンズ像を擁します。数フィート先の US District Court は、1970 年の政治的訴追への抗議が行われた場所です。北へ半マイルの Yale Divinity School は、19 世紀の奴隷制廃止運動の聖職者たちがネットワークを組織した制度的拠点でした。Green そのもの ── 1638 年 Puritan 計画の中央広場 ── は、ほぼ 4 世紀にわたって抗議、追悼、記念のための集会の地でした。

伝統は Yale の奴隷制時代の複雑さを贖うものではなく、New Haven の 20 世紀の人種隔離住宅と継続する人種的不平等の歴史を贖うものでもありません。それが行うのは、それらの複雑さと並んで、New Haven の機関と個人が反奴隷制と公民権の活動におよそ 200 年にわたって自身を捧げてきた実質的かつ連続的な記録があることを確立する、ということです。その記録は今や、近年までそうではなかったかたちで公的に可視化されており、可視化そのものが、留学生が Green を歩いて Amistad Memorial が東縁に立つのを見るときに目にするものの一部なのです。


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